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株式会社エバニュー創業100周年 インタビュー ①
代表取締役 岩井大輔「これまでの100年、これからのエバニュー」

経営/コーポレート



――創業者であるお祖父様のことや会社のエピソードなどお伺いいたします。まずは幼少期のお話をお聞かせください。

僕の生まれは東京の台東区の蔵前というところです。その頃の楽しみは、お祭りでのお神輿です。小さい頃から本当にお祭り好きだったのですから、お神輿を担ぐのがずっと恒例になっていたんです。剣道やスキーもやっていました。なかでもスキーは3、4歳くらいから問答無用でやらされましてね……だからスキーは楽しくなかったんですよ。その頃は祖父(当時社長)が考案したスキーの金具なんかも売っていました。今でいうビンディングですね、ワイヤーでガチャンと留める金具。その子供用のものを自分がスキー板に付けて滑っていました。今思うと、あれはテストだったというか僕は実験台だったのかな? と(笑)



――下町っ子という感じだったのですね。本社も当時は蔵前に?

そうですね。店では従業員の人たちが忙しく働いていたのを覚えています。蔵前は問屋街という土地柄、スポーツ用品の問屋がいくつもありました。15分も歩けば10軒ほどの問屋さんが回れるような、そんな環境です。下町の雰囲気があって、「よぉ!」なんてご近所さんに声をかけながら祖父は歩いていましたね。常にわいわい人がいて活気がある町でした。





――創業者でもあるお祖父様はどんな方でしたか?

祖父は典型的な職人気質というか。僕は祖父母と出かける機会が多かったのですが、しょっちゅうタクシーの運転手さんと口喧嘩をしていましたね。その度に祖母に嗜められて。あと、祖父のことでよく覚えているのが、寝る前に枕元に気になっているものを置いていたことです。おもちゃのピストルを何種類も並べて、カチャカチャといじってその都度メモをしていました。何を書いていたのか分かりませんが、ひと通りやるとそのまま布団に入って寝るんです。それが信号器(陸上競技でスタートの合図をするピストル)開発に繋がっていたというのは、後から聞かされましたが。そのおもちゃのピストルをいじっていた姿は鮮明に記憶に残っていますね。

下町の工場はみんな顔見知りでしたし、そういうところで「これやってくれ」と試作品なんかを作っていたと思います。社内に開発部なんてないですから、祖父ひとりで色々やって、きっと失敗作も数多くあったのではないですかね。



――日本初の信号器開発場所は枕元だったらしいというのは、ユニークです。

おそらく外国で使っている場面を知ったか、誰かにそういうスタートの合図をするピストルを作らないかと言われたのではないかと思うんです。おもちゃで培ったプレス技術などを使って。元々祖父はおもちゃ職人で新しいもの好きでした。1960年代ごろだと思いますが、スキーがブームになった時にはスキー用のワックスを開発しようということになって、チューブ状の容器に蝋を詰めたものを売り出したんです。その頃、ワックスといえばオーストリアの「オストーデル」という商品が有名でした。それにあやかって商品名は「オストローデル」。押すと蝋出る……(笑)。洒落というか、今ではとても付けられないような名前です。





――洒落がきいていますね。1960年代と言いますと、最初の登山ブームがあり、‘64年には東京オリンピックもありました。

そうですね、当時の主力商品は登山用品だったと思います。扱う商品も7割は登山用品で、ガソリンのバーナーやアイゼン。残りの3割は学校で使うライン引きやメガホンなどの体育用品でした。そのころの社員は全員が登山家といった感じで、プロスキーヤーの三浦雄一郎さんもかつてはうちの社員(‘61〜64年在籍)でした。土曜はみんな自宅から登山靴で出社して、午前の仕事を終えたら夜行で山へ向かっていました。群馬県の谷川岳あたりに行って、日曜日に山に登って、夜行で月曜日朝に東京に着いてそのまま出社。当時のそんな山岳を取り巻く様子が16ミリフィルムにも残っています。



――16ミリフィルム、かつて社内にあった記録映画部ですね。1963年に記録映画部を作られていますが、設置のきっかけは。

言い出したのは祖父だったと思います。映画が好きだったというのもありますけれど、いわゆるプロモーション、宣伝の一環ですね。自主映画を制作して全国各地で上映会を行いました。音声が入っていない映像もありましたので、上映時には解説員がついたりして。町のスポーツ店で山好きの方に上映会の券を配ったり、上映会では抽選会をやったりして、娯楽の一面もあったと思います。三浦雄一郎さんは『富士山直滑降』などの記録映画も残していますが、その撮影カメラマンも元はうちの社員だったんです。そんなこともあり、登山やスキーなど国内外の映像を記録し上映する事業を20年に亘り行いました。スキー選手のトニー・ザイラー氏(1956年冬季オリンピックで史上初のアルペン競技全制覇を果たした)が来たときの映像など貴重なものもたくさん残っています。実は16ミリフィルムの映写機が社内になく、残念ながら映像を見ることができていないのです。





――貴重な映像の数々、是非とも見てみたいです。さて、会社にとっての100年は大正、昭和、平成、令和を駆け抜けるまさに激動ではなかったかと思います。

祖父からは関東大震災の時のことを聞いています。1924年が創業ですが、前年に地震がありました。下町は大変なことになって、二度とあんな経験はしたくないと祖母も言っていましたね。僕が一番厳しかったと思うのは、やはり2011年の東日本大震災ですね。本社ビル(会社は1974年に蔵前から木場に移転)が傾いて被害が大きかったんです。都内でもしばらく余震が続いていましたでしょう? ビルの傾きが社員の健康状態にも影響するようになってしまったので、社屋を手放さざるを得ませんでした。移転が急務となり、木場を引き払って現在のこの場所(江東区新砂)に移ってきたというわけなのです。ですから、あくまでここは一時避難。本音を言えばもう一度、馴染み深い台東区に戻りたいと思っています。そんな思いもあって、引越しの段ボールを片付けられないままでいます。片付けると根を生やしてしまいそうで……。



――そんな思いがおありだったのですね。

社員は大変かもしれないですけど……(笑)。でも100周年というのを意識したのは最近になってからです。100年を目指してきたわけではなく結果ですね。通過点のように思っています。でも、日本で100年続く企業は数パーセント。それはそれで素晴らしいことと感じています。学校体育用品とアウトドアの小物でこんなに長く続くというのは感慨深いものがあります。やはり支えてくれたお客様やお取引先である学校を始め、問屋さん、真面目に働いてくれた社員、みなさまのおかげだと思います。






インタビュー② ≪これまでの100年、これからのエバニュー≫ につづく

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